大阪肛門科診療所、院長の佐々木巌です
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自己紹介
(2018年9月9日加筆修正)
まずは自己紹介をさせて頂きます。
院長の佐々木巌(いわお)と申します。
医学を志す
私は大阪肛門病院の第3代院長である佐々木茂雄の第4子、次男として生まれました。
父は私の進路に関しては私の意志を尊重する方針でしたので、私に一度も「医者になれ」とか「病院を継げ」ということは言いませんでした。
しかし、跡継ぎと期待されていた兄が医学とは違う道を選び、私が跡を継ぐ決意をし医学を志しました。
ですから、私は医学を志したのではなく、肛門科医を、もっと正確に言うと大阪肛門病院の院長を志した、というのが本当のところです。
父の死
肛門科を選ぶのかどうか、父は私に尋ねたい気持ちをこらえていたようです。
尋ねることがプレッシャーになり意志決定に影響しないようにとの気遣いで時期が来るまで待ってくれていたのです。
その時期が来たのは、私が大阪医科大学の5年生だったある晩でした。
はじめて父に尋ねられました。
もちろん私は肛門科医になって大阪肛門病院を継ぐ意志を伝えました。
父は、「それなら社会保険中央総合病院(現 東京山手メディカルセンター)大腸肛門病センターで修行するのが一番よい」と勧めてくれ、翌朝には当時センター長だった隅越幸男先生に電話をして頼んでくれたそうです。
そして、その日のうちに父はくも膜下出血で倒れ、そのまま一度も意識を取り戻すことなく亡くなりました。
そういう風にして父は急逝しましたが、父の生前から副院長として病院を支えてくださった田井陽(たいあきら)先生に診療をお願いして、私は平成7年に大学を無事卒業、医師になりました。
東京での修行
大学を卒業してすぐに、父との生前の約束通り、社会保険中央総合病院・大腸肛門病センターに勤務し修行させて頂きました。
当時は臨床研修が義務化される前で、独自のカリキュラムで学ぶことが許されていた時代でした。
私が肛門科医としてのキャリアをスタートさせた同センターは、当時は完全な徒弟制度による教育システムだったのですが、これはとてもラッキーなことでした。
今ではすっかり時代遅れと思われている徒弟制度という環境は医者のヒヨコが「刷り込み」を受けるには最高の環境で、将来の専門領域である肛門科医の常識をごく当たり前のコトとして最初にカラダにしみこませることが出来ました。
もちろんそれなりに厳しくはありました。
勤務医としての身分は研修生といって、研修医のさらに下の身分で、ほぼ無給で無休でした。
私などはいてもいなくても組織にとっては同じこと(つまり役に立たない)でしたが、とにかく下働きをさせてもらって覚えさせてもらう、という立場でした。
大阪肛門病院で診療開始、肛門科医佐々木みのり誕生
当初5年間の予定で修行に行きましたが、3年経たないうちに実家である大阪肛門病院の診療をお任せしていた田井先生が病気のため診療が継続できなくなり、平成10年2月より大阪肛門病院の院長に着任しました。
27歳でした。
右も左もわからない状態でしたが、ただ理想の肛門科診療を目指す情熱だけは持っていました。
手術経験はほとんどありませんでしたが、私の武器は日本で最高の技術を持っていたセンターで最高の手術を助手としてたくさん見たということでした。
今度は自分が術者として手術に臨みましたが、考えるよりも先に手が自然に動いたのがとても印象的でした。ここでも徒弟制度の良さが発揮されました。
着任後すぐに看護スタッフが集団で退職し診療継続が難しくなったため、皮膚科医だった妻みのりに診療を手伝ってもらいました。
そう、看護師の代わりに助手をしてもらったのです。
こんな消極的な理由で肛門科診療に関わるようになった妻ですが、このあとすぐに、女性患者さんと辞めずに残ったスタッフの熱い声に応えるように肛門科医佐々木みのりが誕生します。
大阪の師匠、増田芳夫先生との出会い
平成14年、縁あって増田芳夫先生の門下生となります。
定期的に当院にお招きして難しいケースを診ていただきました。
先生からは本当に多くの事を学ばせていただきました。
このときも社会保険中央総合病院で徒弟制度で教わった経験が役に立ちました。
アタマで考えるのも良いが、カラダにしみこませるようなそういう学び方が私には合っているようです。
増田先生の教えは、現代では忘れ去られた、古くて新しい肛門科医の基本、日帰りで手術を行う技術、そして医者として人としてのモノの考え方に至るまで多岐にわたりました。
何よりも正しく考えることの重要性を学ばせていただきました。
技術は時代とともに変化するかも知れませんが、正しく考える事の重要性は時代が変わっても普遍的だと気付きました。
現在当院で行っている治療は、増田芳夫先生の教えに色濃く影響を受けています。
名称変更、診療所に生まれ変わる
平成19年、それまで25床だった病床数(入院ベッド数)を19床に変更、これに伴い名称を大阪肛門病院から大阪肛門科診療所に変更しました。
それまでも診療の規模としては病院よりも有床診療所の方が適切だったのですが、大阪肛門病院の名を捨てたくなかった私は、ムダなコストがかかっても敢えて病院であり続けることを選んでいました。
正直に言えば、父祖伝来の名称を捨ててしまうと患者さんが来なくなってしまうのではないかという恐れの気持ちがあったのだろうと思います。
病院を引き継いで9〜10年がかりでやっと「独り立ち」する踏ん切りがついた、ということでしょうか。
この長ったらしい名称(笑)は、やはり昔からの大阪肛門病院の患者さん達が迷わずにたどり着けるように、そして新しい患者さん達が「大阪」の「肛門科」を探すときに見つけやすいように、と考えて決めました。
私が大切にしていること
着任当時から現在に至るまで痛くない手術を追求していました。
それが先代から続く大阪肛門科診療所の特長です。
さらに増田先生に出会ってからは日帰り手術も柱の一つに加わりました。
そして自分達の診療をさらに押し進めた結果、現在はもうひとつ診療の柱が加わりました。
それは「手術をしない技術、手術を避ける技術」です。
いかに手術せずに辛い症状を軽減できるか。それが私達の三つ目の診療の柱となっています。
大阪肛門科診療所 院長。 平成7年大阪医科大学卒業。大学5年生の在学中に先代の院長であった父が急逝(当時の名称は大阪肛門病院)。大学卒業後は肛門科に特化した研修を受けるため、当時の標準コースであった医局には入局せず、社会保険中央総合病院(現 東京山手メディカルセンター)大腸肛門病センターに勤務。隅越幸男先生、岩垂純一先生、佐原力三郎先生の下で3年間勤務、研修。平成10年、院長不在の大阪肛門病院を任されていた亡父親友の田井陽先生が体調不良となったため社会保険中央総合病院を退職し、大阪肛門病院を継承。平成14年より増田芳夫先生に師事。平成19年組織変更により大阪肛門科診療所と改称し、現在に至る。